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幸福になりたい

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おはようございます。ツムさんです。

 

先日紹介した「幸福はなぜ哲学の問題になるのか」を読んで目から鱗な考え方に触れて読み終わった後の充足感がとんでもなかったので、一部を紹介します。

 

はじめにからの抜粋ですが、ここに著者の考えの土台が詰まっているような気がします。

 

幸福についての問いには、少なくとも次の三つがあります。幸福とは何か。いかにして幸福になるか。そして、なぜ幸福になるべきか。

「幸福とは何か」という問いへの答えは、それがどんな答えであろうと反発を受け入れることが避けられません。断片的な答えはもちろん、幸福とは人それぞれのものだといった答えでさえ、批判を避けられないのです。

その理由は、「幸福」という言葉が多義的でありながら、他方でその多義性を自ら打ち消し、私たちを均質化しようとする奇妙な力を持っているからです。

うむむ。これは、確かにそうかも。

金持ちであることは本当の幸福とは違う、と述べる人々は、それが幸福の一要素になりうることを否定しているのではなく、だれもが金持ちになるべきだ、といったかたちで幸福が理解されることを拒んでいます。とくに、他の幸福の要素ーたとえば連帯ーを犠牲にしてまで金持ちになるべきだ、といったかたちで。

 この例は分かりやすいですね。

このとき人々は、表面的には「何」について争いながら、根底では「なぜ」について争っています。

 

自分も含めて、みんな「幸せになりたい」と思っているのに、じゃぁ幸せって何?って話をすると 、十人十色というか、この人の幸せの形とドンピシャで同じだなぁ。ってことはまずないですね。それは身近な家族と話しててもそうです。

 

子供はもっぱら、「学校で楽しいことがあった」とか「夕飯が大好物な刺身だった」というようなときに「今日は幸せ~」って言ってますし、妻はもともとネガティブ思考なので、「幸せ~」なんて言葉を発しているところを見たことが無いです。

 

そういう自分の幸せも、第一は「家族の幸せ」であり、家族が平穏無事に毎日を過ごしてくれることが一番だと考えています。

 

身近な家族でさえ、「幸福」の形は同じではない。それなら、「幸福」ってなんなんでしょうか。

 

ある人にとって最適な上昇と充足とのバランスの取り方は、その人固有の資質や環境や運に大きく左右されるため、日々の成功と失敗のなかで習慣を洗練させていく以外に、よいバランスの取り方は見つからないからです。

「上昇」とは、収入や地位やその他多くのものの向上を意味します。技能や健康状態の向上もそこには含まれています。もう一方の「充足」は、いま与えられているものの価値を認識し、それを十分に味わうことで、満ち足りた気持ちになることを意味します。 

 これは感覚的に分かるような気がします。自分のキャリアアップを目指して「転職」したり、独立した人は皆運動を始めるというような話はよく聞きます。上昇志向と書くとわかりやすいでしょうか。

 充足のほうも、ご飯をよく噛んで味わって食べると幸せに感じるとはよく言ったもので、普段の食事でもさっと食べてしまうよりも、時間をかけて家族と会話しながら楽しく過ごしたほうが一層美味しく、幸せに感じますよね。

だからこそ、天下り式にではなく、「いかに」の問いに答えることは難しく、人生論においてはしばしば、語り手が実際に成功をしたという体験談のかたちでのみ、バランスの取り方の「いかに」が述べられています。

 そういった体験談も、どこか他人事にしか聞こえてこないのも、結局は、「幸せとは何か」についての多義性によるということを皆が無意識のうちに分かっているからなんだろうな。

 

そして、「幸福は与えられるものではなくて、自分で感じるものだ」ということも、無意識のうちにわかっているからこそ、議論しても100%理解し合えることは無いということを話の中で自然と意識することになってしまい、「幸福とはなにか」という議論が「なぜそのことが幸福なのか」という話に置き換わってしまうのだと。

 

人生の丁度折り返しポイントまで生きてこられたことに感謝しつつ、改めて自分にとっての「幸福とはなにか」について考えるきっかけになった一冊です。