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【書評】友だちのいない世界

おはようございます。ツムさんです。

 

前回の書評の続きです。

まずは、下を読んでみてください。 

 

 

人間社会に異なるゲームがあるのは、富を獲得する手段に、①相手から奪う(権力ゲーム)、②交易する(お金儲けゲーム)という二つの方法があるからだ。

政治空間の権力ゲームは複雑で、貨幣空間のお金持ちゲームはシンプルだ。誰だって難しいより簡単なほうがいいから、必然的に貨幣空間が政治空間を侵食していく。この傾向は、中間共同体ではとても顕著だ。

中間共同体とは、PTAや自治会、会社の同期会のような「他人以上友だち未満」の人間関係の総称だ。日本や欧米先進諸国では、貨幣空間の膨張によってこうちた共同体が急速に消滅しつつある。PTA活動や自治会活動は面倒臭いから、お金を払ってサービスを購入すればいい、というわけだ。

 

あー、これ。めちゃくちゃ分かります。PTAも自治会も、今そこにある問題です。日本の…という意味ではなく、ごくごく身近な問題という意味です。

昔の日本の社会は、PTAにしろ自治会にしろ、強制ではなくても、「入らないといけない」空気のようなものがありましたし、入らないと村八分にされるリスクが大きく、加入しないという選択は無かったと思います。

 

自治会費やPTA会費は、極小化された権力ゲームにおける富にあたると考えられますね。強制性はないけれど、「入らないといけない」空気を作り上げることで、富を巻き上げているわけです(年会費数百円~数千円としても)。

ただし、巻き上げる代わりに、PTAや自治会の役員はそれ相応の働きを求められるわけで、運よく役員を免れたひとからすればメンドウクサイ活動から自由になるための保釈金という考え方もできます。ここで話をややこしくするのは、役員を担当するひとも他の大多数と同じひと(親だったり、隣近所の住民)だということで、「自分も保釈金を払っているのになぜ私だけ囚われるの?」という不公平感でしょう。

 

役員が輪番で決まろうが、くじ引きで決まろうが、立候補で決まろうが、そこでは、同じ立場の人間なのに「生贄として差し出されたひと」と「生贄をささげたひと」のグループに分かれます。昔の日本は、この種の不公平感は「ムラ社会」の長(おさ)達により、役員は自然と労われ、コミュニティメンバーも声をあげることは少なかったのだと思います。

 

自治会もPTAも近年やたら 「存続の危機」が叫ばれているのは、不公平感を自然と解消するような仕掛けが中間共同体からことごとく消滅してしまったことにあると思います。

下手に気を遣うのではなくて、「役員ご苦労様です。」という感謝の気持ちを持ちながら過ごすこと、役員側も、活動をクローズドにせずオープンにして、コミュニティメンバー全員で活動しているんだという意識を持たせることでこの問題は解消できると考えています。

 

中間共同体が消えてしまうと、次に友情空間が貨幣に侵食されるようになる。友だちというのは、維持するのがとても難しい人間関係だ。それによくよく考えてみれば、たまたま同級生になっただけの他人が、想い出を共有しているというだけで、自分にとって「特別な人」になる合理的な理由があるわけではない。だったら、友だちなんていなくても、貨幣空間の人間関係(スモールワールドのネットワーク)があれば充分だと考えるひとが増えてきたのだ。

 

友だちは相手あっての関係なので、頑張って維持しようとして疲れてしまうくらいなら、離れてしまえばいいやと考えているので、自分の中で友情空間と貨幣空間が排他的な空間という扱いになっていないかな。

ただ単純に、友情空間に力を入れるのか貨幣空間に力を入れるのか、その時々で重みが変わってくるということで、この場合、「友だちなんていなくても、…」という件は当てはまらなくなる。ここは少しドライすぎる感じがしますね。まるで、友情をとるのか金をとるのかの二者択一のような感じがします。

 

この本はいろいろ考えさせられますね。じっくり読んでいるのでなかなか進みませんが、他にも気づきをGetできたら記事にしようと思います。